神様のためにすべてを捨てるとは

神様を愛するとは神様のためにすべてを捨てることです。

 

すべてを捨てるとは、物だけではなく、自分が執着しているすべての執着を捨てることでもあります。

 

自分の執着を断ち切ることは、物を捨てるよりは難しいでしょう。

 

物は簡単に捨てれても、家族や仕事はなかなか捨てられない。

 

それだけ執着があるからなのでしょう。

 

しかし、その家族、仕事すらも神様のために捨ててこそ、真に神様を愛したと言えるのです。

 

執着を断ち切ったと言えるのです。

 

家族がどれほど自分を豊かにしてくれたでしょうか。

 

サタンに主管されている家族が幸せをもたらしてくれたでしょうか。

 

家族と仲良くすることはサタンと仲良くすることと同じではないでしょうか。

 

仕事もそうです。

 

サタンに主管された仕事がこの世界ではほとんどです。

 

いつまでもそのような仕事にこだわることが一体どれほどの意味があるでしょうか。

 

無意味な論争が私は嫌いです。

 

サタンに主管されている人とああだこうだ論争しても、何も生まれません。

 

サタンの目的は神様の御心を破壊することにあるのですから、私たちの御心を破壊しようと、悪口を言ったり、やる気を損なわせたり、家族愛や、情に訴えかけることで、御心を破壊しようとしてくるでしょう。

 

特に家族はこの手口で御心を破壊してきますね。

 

聖書にはこう書かれています。

 

あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に5人いるならば、3人は2人と、2人は3人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。 ルカによる福音書12章51章~53章

 

この言葉を最初見たとき、私はえっ?と思いました。イエス様はてっきり平和のために来たと思っていたからです。

 

しかし、この言葉はそういう意味ではなく、イエス様は家族の中にサタンに主管された人と神様を愛する人が確実に分かれることを見抜いておられたのです。

 

そして神様とサタンの両方を愛することはできないということを言っているのです。

 

このようにサタンにすぎない家族と仲良くしていても、神様を愛したとは言えないのです。

 

それは二心をもって神様を愛していることになり、神様のためにすべてを捨てたとはいえません。

 

家族愛を捨てて、神様だけを一途に全身全霊で愛してこそ、はじめて神様を愛したと言えるのです。

 

私はつくづく自分が甘かったと思っています。

 

周りに合わせたり、家族に変に優しくふるまって真理に反することをしてきましたから、それはただ自分の栄光を求めてきたにすぎません。

 

神様の栄光を求めなければならないのに、自分を愛してきたのですから、本当に神様に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

神様を本当に愛しているなら、サタンにすぎない家族なんて捨てて当然でしょう。

 

もし彼らが情に訴えかけてくるなら、殺すぐらいの気概で神様を愛さなければならないのです。

 

それが神様を一途に愛するということなのです。

 

伝道も情に訴えかけるような伝道はだめだと思っています。

 

人に優しくする伝道はむしろ下心やサタンを感じてしまうのです。