神様を第一に愛するという掟の意味

キリストの第一の教えは神様を愛することにあります。

 

そして、第二に、「隣人を自分のように愛せ」と聖書には書かれています。

 

順番が逆になってはいけないのです。

 

いつもどんなときも神様を愛している限り、私たちが悪の道を走ることはありません。

 

しかし、隣人から好かれようとして、隣人を愛するのは本末転倒です。

 

そうすることで、神様を捨て悪の道を突き進んでしまう可能性があるからです。

 

先ず第一に神様を愛すること。

 

この掟を忠実に守ってこそ、心が平安に包まれ、隣人も愛せるようになるのです。

 

私は以前、兄弟の皆様と接点を持とうと近づき、主に裁かれてしまいました。

 

不用意に兄弟に近づくのは罪なのです。

 

ですから、このブログは細々とやっていくつもりです。

 

兄弟の皆様も完全ではないので、罪を犯している人、高慢の罪に陥っている人もたくさんいます。

 

スピリチュアル系にもシンクロが起きたと言って騒いでいる人もいましたが、そういう人はたいてい心が平安に包まれてはいませんでした。

 

神様を信じる人の中にも、神様から祝福されたことをやたら自慢している人もいます。

 

これは自我の強い人が陥る罠で、ほとんどが神様から祝福されたと言うよりサタンからの影響を強く受けた結果ともいえるのです。

 

サタンも様々な奇跡、しるしを起こすことができるからです。

 

それを神様からの祝福だと錯覚してしまうのです。

 

私たちが求めなければならないのは、兄弟ではなく、神様であり、自分が神様から祝福されたことを自慢して兄弟から認めてもらおうとすることではありません。

 

わたしはこのことをちゃんと理解していませんでした。

 

ですから、神様に裁かれてしまったのです。

 

しかし、これでよかったと思います。

 

わたしはアメブロでもうブログをやりたいとは思いません。

 

海老蔵の顔ばかり見るのが嫌だからです。

 

もちろんそれだけではありませんし、信仰をもって神様を愛したからと言って毎日が常に良いことばかり起きるわけでもありません。

 

やらなくてはならないことも当然ありますがいつも心が平安に包まれているのです。

 

何が起きても大丈夫と思えるのです。

 

この平和な感覚があまりにも素晴らしいから信仰生活はやめられないのです。

 

やたら人を工作員扱いする兄弟にも興味はありません。

 

怒りもありません。

 

彼らの心が真に平安に包まれたら、だれだれが工作員だとかそんなこと気にならなくなります。

 

どうでもよくなります。

 

だからと言って、工作員がいないというのは嘘なので注意する必要があります。

 

工作員は間違いなく実在しますが、だから何だと言うのでしょう。

 

神様から祝福されたことや聖霊を感じたことなどをやたら自慢する兄弟は、嫉妬心にかられ、人を見下しています。

 

高慢の罪に陥っているのに、人が高慢の罪に陥っていると思っているのです。

 

聖書にはこう書かれています。

 

あなたは、兄弟の目の中にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、先ず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。 ルカによる福音書6章41節~42節

 

つまり、神様からこんなに祝福されたとか、兄弟を工作員扱いしたりして、それが勘違であるにもかかわらず、何一つ謝罪の言葉もなく、むしろ人のブログ内容を批判するような人は、高慢の罪を犯しています。

 

もちろん私にも否がないわけではありませんが、工作員である確証がないのに、その可能性のある人をみな工作員扱いするのは、肌の色が黒いことを差別する人と何も変わりません。

 

私がスピリチュアル系の話をよくするのは、私自身がスピリチュアル系と接点をもち、何一つ良いことがなかったことを多くの人に理解してもらうためです。

 

にもかかわらず、スピリチュアルやニューエイジの話をしているから、工作員だとあるアメブロの兄弟は決めつけてきたのです。

 

そして、わたしが少しでも汚れたものをブログに入れるのは罪だとメッセージを送りつけてきました。

 

汚れたもの?それはスピリチュアル系のことでしょうか。

 

たしかにこれは汚れたものですが、だからと言って、悪魔側の思想のことを全く話さずにどうやって警告をすることができるでしょうか。

 

わたしがスピリチュアルをアピールしているとも言ってきました。

 

スピリチュアルを言い広めようとしているとも言ってきました。

 

わたしがスピリチュアルをアピールすることで私にどんなメリットがあるというのでしょう。

 

私は主を愛しているからこそ、悪魔の思想にすぎないスピリチュアルを批判しているだけです。

 

人を工作員扱いして、間違いだったことがわかったのにもかかわらず、謝罪はしないわ、決めつけるわ、これはあまりにもひどいですね。

 

下手をすると、本当の工作員以上に兄弟の信仰を破壊しています。

 

私はRAPTさんのおかげで何とか信仰は守れているので、このような兄弟には信仰が破壊されることはなかったですが、信仰の弱い人とかだとこのようなことが一回でもあると、相当なダメージを受けると思います。

 

やたら説教臭くなる兄弟も要注意です。

 

なんでもはっきり言うおばちゃんみたいな人になるのも高慢の罪のせいです。

 

エスの言葉を真剣に守っている人が、なぜ説教ばかりするおばちゃんみたいになれるでしょうか。

 

明らかに高慢の罪を犯しています。

 

わたしもこのようなことをくどくどと言いたくありません。

 

自分が罪を犯すことになっては本末転倒だからです。

 

多くの兄弟の皆様に神様の掟を守ることがどういうことなのか、しっかりと理解してもらうために、このようなことを言っているのです。

 

もちろん私自身が接点を持とうとして近づいたのは事実ですから、その罪を反省していますが、過剰に兄弟を工作員扱いする人も逆に工作員なのではないかと疑いが出てきますね。

 

いやそういう人は、本当の工作員以上にたちが悪いです。

 

ミーハーな信者という感じで気分が悪いです。

 

特に40代ぐらいの女性に多いです。

 

何か言ったら、いちいち反論してきます。

 

謙虚さがまったくないです。

 

それでどうしてイエスの言葉を守っていると言えるのでしょうか。

 

もちろん工作員に対しては別だという考えなのかもしれませんが、私は工作員ではないので、その間違いを犯しながらも、まだ自分を正当化する図太さが考えられないと言っているのです。

 

それでよく神様の掟を守っていると言えますね。

 

私なら自分で自分が恥ずかしくなります。


とにかく、自分自身の罪をしっかりと認識することが大切です。


そうしてはじめて、兄弟の目のおが屑を取り除けるのです。

希望はある

有名陰謀論者の言うことを信じてしまうと、絶望の深淵に突き落とされてしまいます。

 

リチャードコシミズ、ベンジャミンフルフォード、船瀬俊介、内海聡などです。

 

彼らの言うことは部分的には正しいのですが、嘘が巧妙に混ざっています。

 

彼らの情報をすべて鵜呑みにするようなことはしないでください。

 

普通に考えれば、真理を知れば知るほど、私たちはわからないことがなくなり、より希望が持てるようになるはずです。

 

しかし、彼らの情報を知れば知るほど、心が絶望してしまうのはなぜなのでしょうか。

 

それは彼らの情報が真理に根差していないからです。

 

悪魔側の人間はいつもわたしたちから希望を奪い、絶望の中で生きさせようとします。

 

そうすることで私たちをコントロールできるからです。

 

しかし、悪魔が本当にいるなら、神様もこの世に本当におられるのです。

 

もしこの世に悪魔しかいなかったなら、とっくに世界は滅んでいたでしょう。

 

なんせこの世を支配しているのは悪魔なのですから。

 

それは事実ですが、世界はまだ滅んでいません。

 

なぜでしょうか。

 

神様が私たちを守ってくださっているからです。

 

神様には感謝しかないです。

 

私たち人類が堕落し、悪魔に騙され、無神論が当たり前の世の中で生きているときも、神様はいつもそばで見ていてくださり、人類を正しい道に導いてくださいました。

 

RAPTさんをはじめとする預言者をこの世におつかわしになり、御言葉を宣布してくださいました。

 

ですから、私たちは諦めてはならないのです。

 

神様のために諦めてはならないのです。

 

希望はあるのです。

 

絶望してはいけないのです。

 

陰謀論を信じ込み、絶望してしまった人もRAPTさんのブログを読めば、希望がもてるでしょう。

 

RAPTブログのおかげで希望を持つことができた人がたくさんいるのに、RAPTさんを批判するブログを書かれている人もいるようです。

 

とても残念です。

 

ただ批判するだけなら誰でもできますね。

 

ただ脅すだけの陰謀論もいらないですね。

 

心が絶望するだけなら、聖書を読む意味もないですし。

 

聖書を読む意味は希望を持つことにあるのですから。

 

神様を知り、神様を愛するために私たちは聖書を読むのです。

 

私は自分の高慢さを悔い改め、神様を一途な心で愛せるよう日々努力します。

 

今が聖書でいう、終わりのときであるのは事実です。

 

しかし、世界が滅亡するとか、日本が終わるとか、そんな短絡的な解釈で良いのでしょうか。

 

聖書の終わりのときとは、時代の変革期のことです。

 

もし世界が終わるのなら、ノストラダムスの大予言になってしまいます。

 

そして、ノストラダムスの大予言は外れました。

 

2012年アセンションも外れました。

 

つまり、地球が滅亡するようなことはこれから先もないのです。

 

過去に起こらなかったことが将来起こることはないと聖書に書かれているからです。

 

 

恋愛は悪魔崇拝

マスコミはなぜ人々が恋愛することばかり煽るのでしょうか。

 

最近のJ-POPも恋愛の歌詞ばかりですね。

 

まるで早く恋愛し、性的な関係を異性と持った人が偉いかのような洗脳がマスコミや漫画でなされています。

 

誰がこの洗脳をしているかというと、悪魔側の連中です。

 

多くの人がこの罠にかからないように願うばかりです。

 

異性と性的な関係をもつことで、経済力もない学生がどうやって子を養えるというのでしょう。

 

物事を筋道立てて考えて行動するのではなく、確実に間違った道を行っているのは誰がどう見ても明らかです。

 

結婚せずに性的な関係をもつなら、結婚という制度の意味がなくなるのではないでしょうか。

 

物事を順序立てて行わず、秩序を破壊し、滅茶苦茶にするのはすべてサタンの仕業です。

 

彼らは人類を不幸にしたいので、そのような一時的な快楽を得ることを奨励し、人々を恋愛に駆り立て、異性と性的な関係をもたせようと誘導しているのでしょう。

 

恋愛や異性と性的な関係を持つことは神様の御心ではありません。

 

それは悪魔が考えた罠です。

 

異性の罪はアダムとエバが犯した最も重い原罪です。

 

聖書にはこう書かれています。

 

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。女は実をとって食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 創世記3章1~7節

 

そのまま読んだら何のことか意味がわからないと思いますが、以下の言葉を当てはめて理解してください。

 

蛇=サタン、園の中央に生えている木の果実=人間の生殖器、女=エバ、男=アダム

 

すると、意味がわかってきます。

 

聖書は基本的にたとえ(比喩)を使って書かれているのです。

 

禁断の果実のことももちろんたとえなのです。

 

上の言葉を文章に当てはめて理解すると、アダムはエバと淫乱なことをしたことが理解できると思います。

 

当時の彼らはまだ大人になっておらず、まだ性的な関係をもつような年齢ではありませんでした。

 

そんな彼らが神様からするなと言われた性的なことを蛇=サタンに騙されしてしまったのです。

 

そして神様が死んでしまうと言ったのは、肉的に死んでしまうのではなく霊的に死んでしまうということを言ったのです。

 

こうしてアダムとエバはエデンの園から追放されることになります。

 

そして6000年間、人類は裁かれることとなってしまったのです。

 

人類の歴史はサタンに引き渡され、地上では戦争などの血みどろの権力闘争が繰り広げられ、一般庶民は巻き込まれ、とてつもない苦しみを感じながら多くの人が人生を送ることを余儀なくされました。

 

当時のアダムは神様が育てていた救世主なので、イエスキリストと同じ立場の人間でした。

 

そんなアダムが性的な堕落をしてしまったことで、神様は人類全体をお裁きになったのです。

 

これを人類の原罪と言います。

 

つまり、性的な堕落は、神様の世界では最も重い罪なのです。

 

そんな罪を誰が犯させようとしているかは上の文章を読めばもうわかりますね。

 

そうです。神様に反逆したサタンです。

 

マスコミに騙され、結婚もしていない者が複数の異性と性的体験をもっただけで、それはすでにサタンの罠にかかってしまったということです。

 

もちろん神様からの祝福を受けることはできません。

 

このように考えると現代人はとても無自覚に罪を犯してしまっていることに気づくと思います。

 

私たちの社会はサタンが支配する社会なのです。

 

特にマスコミの情報を鵜呑みにするのはとても危険です。

 

私たちはこの真理を理解して生きる必要があるのです。

 

神様の御心に常に叶った生き方をしなければならないのです。

神様のためにすべてを捨てるとは

神様を愛するとは神様のためにすべてを捨てることです。

 

すべてを捨てるとは、物だけではなく、自分が執着しているすべての執着を捨てることでもあります。

 

自分の執着を断ち切ることは、物を捨てるよりは難しいでしょう。

 

物は簡単に捨てれても、家族や仕事はなかなか捨てられない。

 

それだけ執着があるからなのでしょう。

 

しかし、その家族、仕事すらも神様のために捨ててこそ、真に神様を愛したと言えるのです。

 

執着を断ち切ったと言えるのです。

 

家族がどれほど自分を豊かにしてくれたでしょうか。

 

サタンに主管されている家族が幸せをもたらしてくれたでしょうか。

 

家族と仲良くすることはサタンと仲良くすることと同じではないでしょうか。

 

仕事もそうです。

 

サタンに主管された仕事がこの世界ではほとんどです。

 

いつまでもそのような仕事にこだわることが一体どれほどの意味があるでしょうか。

 

無意味な論争が私は嫌いです。

 

サタンに主管されている人とああだこうだ論争しても、何も生まれません。

 

サタンの目的は神様の御心を破壊することにあるのですから、私たちの御心を破壊しようと、悪口を言ったり、やる気を損なわせたり、家族愛や、情に訴えかけることで、御心を破壊しようとしてくるでしょう。

 

特に家族はこの手口で御心を破壊してきますね。

 

聖書にはこう書かれています。

 

あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に5人いるならば、3人は2人と、2人は3人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。 ルカによる福音書12章51章~53章

 

この言葉を最初見たとき、私はえっ?と思いました。イエス様はてっきり平和のために来たと思っていたからです。

 

しかし、この言葉はそういう意味ではなく、イエス様は家族の中にサタンに主管された人と神様を愛する人が確実に分かれることを見抜いておられたのです。

 

そして神様とサタンの両方を愛することはできないということを言っているのです。

 

このようにサタンにすぎない家族と仲良くしていても、神様を愛したとは言えないのです。

 

それは二心をもって神様を愛していることになり、神様のためにすべてを捨てたとはいえません。

 

家族愛を捨てて、神様だけを一途に全身全霊で愛してこそ、はじめて神様を愛したと言えるのです。

 

私はつくづく自分が甘かったと思っています。

 

周りに合わせたり、家族に変に優しくふるまって真理に反することをしてきましたから、それはただ自分の栄光を求めてきたにすぎません。

 

神様の栄光を求めなければならないのに、自分を愛してきたのですから、本当に神様に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

神様を本当に愛しているなら、サタンにすぎない家族なんて捨てて当然でしょう。

 

もし彼らが情に訴えかけてくるなら、殺すぐらいの気概で神様を愛さなければならないのです。

 

それが神様を一途に愛するということなのです。

 

伝道も情に訴えかけるような伝道はだめだと思っています。

 

人に優しくする伝道はむしろ下心やサタンを感じてしまうのです。

 

 

人はなぜこの世で苦しむのか

なぜこの世で人は苦しむのでしょう。

 

この世はサタンが支配しているからです。

 

聖書にはこう書かれています。

 

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 ルカによる福音書 4章6節

 

エス様が伝道を始める前、悪魔(サタン)から誘惑を受けたときにサタンが言ったセリフです。

 

つまり、この世界はサタンの支配下にあるのです。

 

2000年前からそうなのです。

 

今はもっと酷いと思った方がいいです。

 

ですから、この世では多くの人々が苦しみ、鬱になり、自殺をする人が後を絶たないのです。

 

日本では毎年3万人以上の自殺者がいるとされていますが、実際はもっと多いことがわかっています。

 

実際は10万人以上の人が自から命を絶っているのです。

 

こんな世界をまともな世界だとは私は昔から思えませんでした。

 

しかし、私の周りにいる人や家族はそういう人がいてもその人の責任にして、すべてを片付けていました。

 

私にはそれがとても普通のやり方だとは思えなかったのです。

 

私たちが一緒に生活している親や学校の先生や職場の人たちも当然サタンからの影響を受けて生活しているのです。

 

サタンとは霊的存在です。

 

人の思考や感情に自在に入り込むことができます。

 

そして、私たちをあらぬ方向へ誘導することができます。

 

ですから、親や学校の先生もサタンに洗脳されていて、その肉体が操られていると思った方が良いということです。

 

決して、親を親と思うのはやめるべきです。

 

先生を先生だと思うのもやめるべきです。

 

そう思って、私はとてつもない苦痛を経験しましたから。

 

親を操っているのはサタンだと思うべきです。

 

正しい認識をもつことで、苦しみを軽減することができるからです。

 

間違った認識のせいで自分を責めたり、苦しめたりしてはいけません。

 

あなたが苦しい思いをしているならなおさらです。

 

この世の人間をサタンは使うことができるのです。

 

サタンは霊体なので、人間の肉体の中に入ることもできます。

 

ですから、人間を信頼するより、あなたの主である神様を愛してください。

 

サタンが霊なら、神様も霊だからです。

 

正しい霊に従うことが大切です。

 

正しい霊に自分を明け渡してください。

 

正しい霊に救いを求めてください。

 

そうすることで、自分を救うことができるからです。

 

自分の思考を自分のものだと思うのをやめてください。

 

サタンへの裁きを神様にお祈りしましょう。

 

兄弟姉妹力を合わせてお祈りしましょう。

 

この世が神様の世界になりますように。

 

愛する神様に今日も、明日も世々限りなく栄光がありますように。

 

神様の存在を知りたい方は以下のブログを読んでください。

 

RAPT | RAPT有料記事

 

 

 

 

邪念との闘い

毎日が邪念との戦いの日々を送っています。

 

邪念はサタンなどの悪い霊的存在が入れてくると感じています。

 

御言葉に対する疑いや疑念など、いろんな邪念雑念に惑わされています。

 

特に仕事の疲れがひどく、祈りの時間が少ない日ほどそのような邪念にふりまわされます。

 

そのほか、いろんな罪との戦いもあり、自分という人間の不純さを痛感する日々を送っています。

 

明け方の祈りができるようになったのはいいのですが、祈っている最中は良い感覚で満たされるのですが、仕事に行く電車の中やいろんな場所でいらない雑念がたくさん出てきますね。

 

そのたびに神様を呼び求め、雑念を追い払ってもらったりしています。

 

しかし、その雑念を突き詰めていくと、思考の堂々巡りがはじまり、いろんなあらぬ考えが出てくるのです。

 

突き詰めるのではなく中断する必要があると思いました。

 

私は以前からこのような状態になりやすく、以前はそうなってしまう自分を責めていましたが、今はサタンからの攻撃だと割り切るようにしています。

 

いずれにせよ、自分の考えを突き詰めたところで、それは自分の考え以外の何ものでもないわけですし、私たちはどこまでも神様の次元を目指さなければならないのですから、神様の御心以外はすべて雑念だというスタンスいいのだと思います。

 

新約聖書イスカリオテのユダにサタンが入って、イエス様を裏切った話がありますが、私たちの肉体も、雑念で満たされているなら、サタンに簡単に操られてしまうでしょう。

 

そうならないように、注意しなければならないと思います。

 

気を引き締めていかないといけないと思いました。

 

サタンはちょっと気が緩んだところを狙って入ってきますね。

 

いろんな罪の誘惑が起きやすくなるのもそのようなときでしょう。

 

特に週末は要注意ですね。

 

あと長期の休みも要注意ですね。

 

とにかくいつもどんなときも気を引き締めて、神様だけを愛していきたいと強く願っています。

 

神様の愛だけがすべてだからです。

 

私には神様の愛だけしかないのです。

 

私は友人も少ないですし、人間関係も希薄です。

 

両親はサタンそのもののような人間なので、ほとんど捨てています。

 

神様の愛以外は捨てなければならないとの御言葉が宣布されました。

 

私は、最初からほとんど捨てられたような身分だったので、逆に何も捨てるものがなくて困ったぐらいです。

 

神様に対する信仰は祈りによって感じるしかないですね。

 

祈らない限り、神様の愛を感じることはできません。

 

神様の愛を感じれなくなれば、信仰を維持するのは難しいでしょう。

 

信仰を維持するために、私は祈っているのです。

 

もちろん、私の信仰は兄弟の皆さま、RAPTさまのおかげで維持できています。

 

自分が努力しなければならないのは当然ですが、兄弟の皆さまの祈りのおかげなのです。

 

私も熱烈に祈り、兄弟の皆さま、RAPTさまに、そして神様に恩返ししていきます。

 

愛する神様に栄光がありますように。

 

そして、皆様に神様からの豊かな愛が降り注ぎますように。

受験勉強の闇

今日、明け方の祈りではっきりと神様の愛を感じました。

 

今までは形式的になってしまい、神様をどう愛して良いのかわからず右往左往してきました。

 

しかし、これほどの愛を感じたのははじめてです。

 

しかし、まだこれでも足りない感じがします。

 

兄弟の皆さま、ラプトさんが条件を立ててくださっているおかげです。

 

私は自分の意志で信仰をもつようになったとは思っていません。

 

すべてが神様のお導きによるもの、そして先祖の義によるものだと思っています。

 

宗教にアレルギーを起こしていた自分がなぜ信仰をもっているのか、不思議に思うこともあります。

 

すべては成り行きでこうなったのです。

 

ラプトさんのように、昔からなぜ艱難ばかりだったのか、その理由もラプトブログを読んで理解できました。

 

すべては神様の練達だったと思っています。

 

私はこの世の学問が苦手で、私の血のつながった兄弟はとても優秀なのに、なぜか私は学校の勉強ができませんでした。

 

周りの人からお前の努力が足らないと何度も言われましたが、私は結構努力をしていたので、なぜできないのかわからなかったのです。

 

学校の勉強をすればするほどなぜか精神的には不安定になり、イライラするようになり、自暴自棄するようになりました。

 

物や同級生に当たり散らしたこともありました。

 

なぜイライラしてしまうのか、なぜ精神的に不安定になるのか、その理由は、この世の学問が完全にサタンのものだからです。

 

サタンは私たちに無意味な勉強をさせることで、精神的に破壊しようとしているのです。

 

普通に考えたら10代前半から後半まで体の一番元気な時期に朝から晩まで机に座って勉強する。そしてその勉強が社会で何らかのためになるならまだしも、どうでもいい役に立たないことばかり。微文積分が役に立った人がいるでしょうか。

 

私は昔から大義がなければ何もやる気が起こらなくなってしまうタイプで、勉学が無意味だとわかった瞬間、無気力になってしまったのです。

 

しかし、私の兄弟は勉強が非常によくできたので、なぜ私が学校の勉強ができないのか、非常に不思議だったようで、一辺倒に私の努力不足だと決めつけてきたのです。

 

私が社会人になっても、親が資格取得を促したり、まだ無意味な勉強をすることを促したり、勉強がすべてだと言わんばかりに私に押し付けてきます。

 

これは完全にサタンに洗脳されてしまった人の特徴だと思うようになりました。

 

人には得て不得手があるので、普通の人ならそこまでこだわらないことに一生こだわり続けています。

 

本当に悪魔です。

 

そして、過剰に勉強をすることそのものが悪魔崇拝なのだとはっきりと悟るようになったのです。

 

だってそうでしょう。

 

鬱やら精神を病んだりするようなものを必要以上にすることが神様の御心なのでしょうか。

 

私たちはみな神様の使命をもって生まれてきているのです。

 

もちろん学問をやって、使命を果たす人もいるでしょう。

 

しかし、学校で画一的に教えられる勉学は多分に悪魔崇拝だと感じるのです。

 

RAPT | RAPT×読者対談〈第116弾〉受験戦争の闇。イルミナティの裏口入学。

 

この記事に受験(学校でする勉強)はイルミナティのご子息が裏口入学できるように巧妙に操作されているということが書かれています。

 

庶民が一生懸命勉強しても脳が破壊され、精神を病んでしまう。

 

しかし、イルミナティのご子息は最初から有名大学に楽々と進学し、精神を病むことなく生きていく。

 

これだけで庶民が彼らの栄光のために生贄にされていると言っても過言ではありません。

 

そして生贄といえば悪魔崇拝です。

 

今から思えば、受験でエネルギーを使い果たして、就職する頃には魂が抜け落ちたようになってしまった人がどれほど気の毒か私にはよくわかります。

 

親御さんもこの真実に気づいて、自分の子供を勉強ばかりさせて、イルミナティの生贄に捧げるような教育をすることがないよう気をつけねばなりません。

 

この世の価値観は腐っています。

 

私の親もサタンに洗脳されていたため、本人は自覚がないようでしたが、私は相当苦しめられました。

 

勉強をさせて、有名企業に入社することがそれ程重要でしょうか。

 

その有名企業のほとんどがイルミナティがつくったのにもかかわらず。

 

自分のエゴより子供が快活に生きていく方が重要なのではないでしょうか。

 

見栄や体裁のために自分の子供を犠牲にするより、彼が健康で楽しく生きてこそ彼の人生にも意味が出てくるのです。

 

今の教育はまるで子供を親の見栄のために犠牲にする教育です。

 

そして、その考えは多分に悪魔崇拝から来ているのです。

 

この事実に多くの方々が気づいてほしいと思っています。